ジャニー喜多川氏による「性被害」問題を仏教はどう見るか [仏教]
ジャニー喜多川のホモセクハラ、いわゆる「性被害」問題で持ちきりですが、一部の意見をもとに仏教のものの見方を書いてみます。といっても、これはその問題だけでなく、あらゆる人間評価、あらゆる事象評価につながる本質的なものの見方を含みます。
少し前に、ジャニー喜多川氏による、いわゆる「性被害」=ホモセクハラ報道について書かれた、ヤフコメを読みました。
ネットのジャニー喜多川氏批判に対して、「悪いことをしたかもしれないけれど、でもそれは個人の性癖に過ぎないもので、その一方ではたくさんのタレントを送り出して大きな仕事をした」という反論をしていました。
このての反論、ブログなどでもよく見かけませんか。
少年たちの人権の問題ですし、性行為が「売出し」と結びついているわけですから、いくら本人が亡くなっていても、社会的な批判は免れないことです。
……といっても、この記事では、それ自体の善悪とか社会的制裁のあり方などを改めて問題にしたいのではありません。
ここで問題にしたいのは、「個人的な性癖」と、「大きな仕事をした」ことを分けて考えて、ジャニー喜多川氏の人間評価を落とさないようにしようとする誤りを、私たちも日常的にもしばしば使ってしまっているということです。
すべてを含めての人間性・人格である
そのコメントでは、このような趣旨のことを書かれていました。
「いつも性行為を強要しているわけではない。プロデューサーとしてはすばらしいものを見せてくれる」
そりゃそうでしょう。
24時間、そんなことばっかりやってるわけないでしょう。
でも、こういうかばい方って、日常的にもよくありますよね。
「酒さえ飲まなければ、いい人」
「一言多くなければ、もっと好かれる」
「女性にだらしないのだけが、玉にキズ」……etc
いずれも、欠点を切り離して、そのひとを評価しようとしているわけですが、でも、どんな心境や事情やシチュエーションだろうが、その「欠点」も含めての、その人の人間性ではないでしょうか。
現実にそれは、「分かち難い」もののはずです。
「酒癖が悪い」のは、普段我慢しているからであり、だからこそ普段は「いい人」なのです。
「一言多い」勇気と洞察力は、逆に仕事などでは長所になっているはずで、実は情の深い人である可能性もあります。
「女性にだらしない」色気は、相手があってのことであり、それはむしろ人間としてもっとも必要な魅力があることのあらわれではないでしょうか。
もし、酒癖を治したら、別の弊害が出てくる可能性もあります。
「一言」をやめることで、その人の「斬れ味」も「深い愛情」も失われてしまうかもしれません。
つまり、パーソナリティというのは、両立しなさそうなものが表裏一体であり、かつ連関しているものなのです。
さらにいえば、その人との付き合い方によっては、評価する角度や深度も変わってきますから、見え方も変わり、また違う評価もあり得るのです。
整理しますと、「本当のその人」は、あらゆる角度から見えるその人の言動の事実全てがそうであり、いずれも関係し合いながら成り立ち、見る人によって見え方は異なるということです。
酒を飲んだから別人になるわけではないのです。
酒を飲んで暴れるのも、真面目に仕事をするのも、みんな含めて「その人」なのです。
性行為を強要するのも、芸能界に芸能人を送り出すのも、みんな含めて「その人」なのです。
「いい人」とはなんぞや
これが仏教と何の関係があるのかという話ですが、仏教には諸法無我という考え方があります。
人間の存在は相対的だということです。
ある人にとってはいい人であり、またある人にとってはとんでもない人である、ということは当たり前のことだ、という教えです。
人間は本来、無謬でも万能でもなく、いいところもわるいところも渾然としているのに、断片的な評価をすることで、他者を買いかぶって過大な期待をしたり、逆に必要以上に悪く見たり、それによって嫉妬をしたり、裏切られたと思ったりしてしまうのです。
仏教では、執着とか渇愛とか称する煩悩の一種なのですが、とにかく間違った人間観はお互い不幸のもとだ、という話です。
昔、人気ブログは人格者の証左、のようなことを見たことありますが、どこから突っ込んだらいいのか、的な穴だらけの話だと思いました。
人気俳優や人気スポーツ選手が人格者とは限らないように、書き物が人気あるから書き手も立派とは限りません。
それに、そもそも、人が人を「人格者」と称賛することに意味はあるのか、という話です。
だいたい、「いい人」というのは、その人にとって「都合のいい人」ぐらいの意味でしょ?
ブログに賞賛のコメントを付けてくれるとか、ナイスをつけてくれるとか。
「お前のブログはここがダメだ」と書く人を「いい人」とはいいたくないでしょ。
でもそのダメ出しは、第三者的には正しいかもしれないのに。
結論ですが、法的、道徳的に問われていることがあるのなら、いいことも悪いことも、まずはそれ自体で評価すること。
逆に、その人の人間評価は、それだけでなくすべてを含めること。
この区別と両立はきちんとしましょう、というのが結論です。
「お前のブログはここがダメだ」と書く人を「いい人」とはいいたくないでしょ。
まあ、言いたくないでしょうなw
SSブログの「コメントを書く」欄は、正しくは「称賛コメントを書く」欄ですww
by 赤面症 (2023-06-02 01:17)
合意じゃ無い以上ダメだと思うんだがなぁ、断れない状況だから逆に酷い。
北こうじ(どんな字だっけ)の時にもっと盛り上がってればその後の被害者は出なかった可能性があると思うのは俺だけでは無いだろうに。
by pn (2023-06-02 06:26)
こんにちは!
復活されていましたか?
参上遅れてしまいました・・・(^-^)!!
by Take-Zee (2023-06-02 10:38)
こういうことは絶対いけませんね
自分も経験あるので
2023-05-07に記事にしてありますが、自分の場合はホモじゃなく女性に見立てられてでした。
by コーヒーカップ (2023-06-02 11:18)
>すべてを含めての人間性・人格である
言い得て妙ですね。ひとりの人間の中には色々な要素があって、それらすべてを含めて「その人」なのだと思います。通常の人にはなかなか理解し難いものですが…この言葉を体得しただけでもその人は世の中を一段スッテプアップするでしょうね。
by 扶侶夢 (2023-06-02 11:59)
元NHKの武田アナと同じ間違いをしてしまいました。
間違いと言うか、誤解されるかもしれない表現です。
「性被害」ではなく、「性加害」とすべきでした。
by いっぷく (2023-06-02 12:03)
故人のこうしたうわさは生前からも業界内だけでなく我々にも時折漏れてきていた話ではありますが犯罪を犯していたのならそれまでの人といったのが私の中での評価です。
私はお坊さんも同性愛者が多い(歴史的にみて)というイメージなんですが仏教の戒律には触れないのでしょうか??
by 青い森のヨッチン (2023-06-02 21:07)