お経や仏像には神秘的な力はあるのか? [仏教]
私たちは、仏教というとお釈迦様を連想すると思いますが、日本に普及している仏教は大乗仏教と言って、お釈迦様の仏教とは別物です。その違いは、大変に大きな仏教学の研究テーマですが、ここではごくごく簡単にその違いと特徴をまとめてみます。
まず、仏教とは何かという話から。
みなさんは、仏教というと、どんなことをイメージしますか。
仏教は、こんにち私たちがイメージしたり、葬儀や法事で世話になったりシているものも含めて、いかなる宗派であっても、「仏教」と名のつく以上、次の点が共通しています。
1.神様はいない
2.諸行無常・諸法無我の教え(不変的なものはない⇒細部の解釈は宗派で少し変わる)
3.一切皆苦の教え(人生とは、思うようにならない辛いものだ)
お釈迦様の仏教の教えは、当時文字にはしなかったのですが、弟子たちによって後に「一切経」といって、お経にしてそれらの教えが記録されました。
逆に言うと、ここに反することを標榜しているカルト団体は、そもそも仏教とは縁もゆかりもないということです。
YouTubeの動画で、「守護霊様」の話をシている日蓮宗の住職がいますが、あれはあの方の趣味や個人的見解であって、宗派の正式見解ではありませんから。
お釈迦様の仏教と大乗仏教の違い
ただ、お釈迦様時代の仏教と、今、日本で仏教と言われている仏教諸宗派(大乗仏教といいます)は、「狙っているところ」に、大きな違いがあります。
どう違うかと言うと、
お釈迦様の仏教は、出家して修行して自分で悟りを開く
↓のに比べて
大乗仏教は、出家していない私たち一般人(在家)も救われる
ということです。
でも、狙っているところが違うのに、お釈迦様時代と同じお経では矛盾してしまいます。
そこで、大乗仏教では、別の新しいお経を作って、お釈迦様の教えに架上し、お釈迦様時代にはなかった新しい教えをそれぞれ標榜しだしたのです。
たとえば、宗派によっては、大日如来とか阿弥陀如来とか、仏像がありますよね。
あれは、お釈迦様時代にはなかった創作物です。
なぜ創作したのか。
修行しない在家の私たちが、修行している人たちのように救われるには、すでに修行をした如来や菩薩に助けてもらおう、という考え方です。
如来というのは、悟りを開いた仏のこと。
菩薩というのは、悟りを求め、衆生を救うために多くの修行を重ねる者です。
そして、助けてもらうための「手間賃」は、善行を施すこと。
六波羅蜜といって、ひとサマに親切にしたり、真面目に生きたりしなさい、ということが定められています。
瀬戸内寂聴さんは、住職になってからも、「不倫何が悪いんだ」とうそぶき、死刑存続派を「殺したがるバカども」など罵倒していました。
あれはマジレスすると、不倫云々は六波羅蜜の「持戒」、罵倒は八正道の「正語」に反しています。
日本の仏門は、そういう人でも僧籍を剥奪されない、まことにいい加減なゆるい一面を持った世界といえるでしょう。
神秘の力をどう見るか
ところで、私は、今の日本の仏教は、新しいお経を作って加えたとか、仏像を創作物したとか、書きました。
そこで、「なんだ。では今の仏教は人が作った作り話だったのか。バカバカしい」と思われたかもしれませんね。
しかし、「神秘の力」(哲学で言う神秘主義)とは、そう単純な話でもないのです。
たとえば、カラスが鳴いて、身内の誰かが亡くなったとします。
遺族にとっては、トラウマになるかもしれませんが、そこには物理的因果関係はありませんから、現象的にはたんなる偶然であり、よって「カラスが鳴くとお迎えがくる」というのは迷信です。
しかし、余命数ヶ月と言われた人が、「子供の結婚までは頑張りたい」と言って、お経の力を信じて、毎日お経を読んでいたら2年生きた、としたらどうでしょうか。
お経そのものは、たんなる書物ですから、たぶん何の力もないと私は思います。
ただし、それを信じるその人の内心には、生きるんだ、信じれば生きられるんだ、という強い意志がはたらき、お経がその拠り所になったことは確かです。
つまり、たんなる文章に過ぎないお経を、自らがそういう力のあるものと決めてお経を読んだことで、その人にそう定義づけられたお経が、定義通りその人限定で「延命の力」を与えた、ということだと思います。
こう書くと、オカルトがかっていますが、脳科学における「暗示」の力については、このへんはうまく説明されていますよね。
「なんでえ、要するにイワシの頭も信心から、ということかよ、つまんねえ」
と、思いますか。
たぶん、そう思うあなたが、何らかの人生のピンチに陥った時、イワシだろうが、仏像だろうが、助けてくれるなら何でも良いよ、と思うんじゃありませんか。
プラシーボだろうが暗示だろうが、要は信じたら実現した、ということが大事なのです。
スポーツ選手が、そういった拠り所を持つのは、よくわかります。
神も仏も、実はその人自身の心のなかにいる、というのは、至言だと思いますね。
神社にお参りに行って、何か願い事をするのは、今書いた「お経による延命の仕組み」と同じことなんでしょう。
でも信仰というのは、厳しいもので、普段信じていない人が、その時だけ付け焼き刃で慌てて「お願い」してもダメなんですよね。
普段から、そのお経を深く、強く信じていなければならない。
だから、いざというとき、それが暗示なり何なりの力で「成果」があるのです。
日常的に善行を積むというのは、いつなんどきでも「暗示なりプラシーボなり何なりの力」を発揮できるように、自分自身の信仰のテンションを維持するための行為と言っていいかもしれません。
つまり、善行を積むというのは、他人のためのようでいて、実は自分の「神秘の力」のためというわけです。
「情けは人の為ならず」とはよく言ったものです。
大乗仏教―ブッダの教えはどこへ向かうのか (NHK出版新書 572) - 佐々木 閑
大乗仏教 ブッダの教えはどこへ向かうのか (NHK出版新書) [ 佐々木閑 ] - 楽天ブックス
マンガでわかる!日本の7大仏教 - 桑沢 篤夫, 多田 一夫
信じる者は救われる、で良いと思うんですよ。その人がそれで良いのなら。
ただそれを人に押し付けようとするとある宗教団体(たくさんあるけど)が気に入らない。神も仏も自分の中、それでいーじゃんね。
by pn (2023-05-22 07:53)
>善行を積むというのは、他人のためのようでいて、実は自分の「神秘の力」のためというわけです。
この部分、とても良く解かりました。生きとし生きるものは自己世界を全うすることが最善なんでしょうね。
by 扶侶夢 (2023-05-22 16:14)
信じるというのは人に押しつけることではなく、
信じていることを日々の生活の中で表していくことだと思います。
by 風太郎 (2023-05-22 21:06)
鰯の頭よりは、仏像や位牌や、お経のほうが本気で信仰しやすいし・・・
by 南無 (2023-05-22 21:49)