斎藤美奈子さんが、「『女帝小池百合子』という本はルッキズム(性差別的)である」と批判して話題になっています。小池百合子さんが、男社会で「女」を武器にしたという描き方はけしからんというのです。
しかし私は、こと文芸作品に対する批評としては、お門違いだと思っています。
森喜朗さんの問題以来、フェミニズム的論調が活気づいています。
斎藤美奈子さんという批評家が、昨年話題になった書籍『女帝小池百合子』は、小池百合子さんが「女」を武器にのし上がったような書き方であり、それは女性の生き方に対する性差別的な描き方でけしからん、という趣旨の批判をして、一部の人が同調しています。
しかし私は、この批評について賛成ではありません。
むしろ、小池百合子という人が、そうせずにはおれない生きざまを描ききった同書を侮辱する愚評だと思います。
誤解のないように書くと、
性差別など議論してはいけない、性差別大いに結構だ、ということではありません 。
ただし、その是非や、社会の中の性差別の指摘論考は、ジャーナリズムや社会評論の仕事であり、本書はあくまでも、小池百合子さんがそういう生き方をしたのだ、という石井妙子さんの視点に基づいた読み物です。
そもそも「女」を武器にしたというのは、本書では小池百合子さんの人格をあらわす一面に過ぎず、小池百合子さんの自己愛や嘘つきぶりなどが渾然となった生きざまを通して語られているものです。
そこから「性差別」と指摘する口実になりえる叙述だけを切り取って批判するというのは、その意味でも文芸作品の批評としてどうなの、と思います。
斎藤美奈子さんは、同書を喜ぶ人は、同書を読みもせず、アンチ小池の人々のレビューを見て喜んでいるだけだ、などとして、自分の批評が唯一絶対のように威張っていますが、思い上がりも甚だしいと思います。
あなたと違う感想や意見もあります!
もちろん、小池百合子さんは、石井妙子さんの指摘するような、「女」を武器にしてのし上がったという生き方はしていないよ、という感想なら、それはそれでいいのです。
ただし、性差別的な描き方自体をけしからん、という批判は、書き物の世界に対する妨害だと思うのです。
むしろ、それをはっきり描くことで、我が国がいかに「男社会」であるかを明確にできるからです。
それとともに、「男社会」の中で、懸命に生きている女性のたくましさ、したたかさ、そして苦悩などをリアルに表現できるのです。
ところが、斎藤美奈子さんの批評は、そういう人たちをそういうふうに描いてはならない、ということです。
これは、自分の描く女性像以外の生き方を否定する、思い上がった考え方です。
フェミニズムと称する論陣の最大の問題点は、そこです。
田嶋陽子という人が、「主婦は奴隷であり家畜である」と唾棄した発言が、蒸し返されて問題になっています。
幸せな結婚生活を営む女性に対して、あんまりな表現ではないでしょうか。
結婚するのもしないのも、それをいかなる価値でとらえているかも、個々の女性の自由であり権利です。
私は、性差別や政的役割分担からの解放は、男女が手を携えて共通の課題として向き合わない限り不可能だと思っていますが、この方々は、男性どころか同性の女性とすら手を携える気持ちがないのです。
そこが不思議で仕方ありません。
まとめ
かんたんに述べます。
「性差別けしからん」ことを、取材や論考で示すのがジャーナリズム。
性差別を利用して生きる女性をとことん描ききることで、性差別とはなんだろうと考えさせるのが文芸作品の役割なのです。
斎藤美奈子さんは、文芸批評家を標榜しながら、この違いすらわからないのでしょうか。
もちろん、反戦映画のような、ダイレクトな社会的メッセージを持った映画や小説もあります。
が、性差別とそれを受けての人の生き方のような、価値観に関わるものは、ひとつの生き方や考え方で断定するのではなくて、一人の生き方を丹念に描いてそこから各自が考える、というアプローチの方が有意義な場合もあると思います。
その意味で、文芸作品の役割を、ぶち壊すようなことはやめてほしいと、映画やドラマや小説が大好きな私は思うわけです。
仮面 虚飾の女帝・小池百合子 - 横田 一
女帝 小池百合子 (文春e-book) - 石井 妙子
うーん、本読んでないから何とも言えないけど武器があるなら使うべきではなかろうかと。
で、斎藤さんって人は表現の自由を否定しかかってるような気もしますがそこらへんどうなんでしょうかね。
by pn (2021-03-14 09:11)