渡哲也さん(1941年12月28日~2020年8月10日)の訃報で持ちきりです。渡哲也さんについては、次の記事で「大病からの生還」「吉永小百合」をキーワードに記事を書いていますが、ここでは過去の出演作品について振り返ってみたいと思います。
大都会ー闘いの日々ー

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大都会 闘いの日々』(1976年1月6日~8月3日、石原プロモーション/日本テレビ)は、渡哲也主演、石原プロ制作の連続刑事ドラマ第一弾です。
この後、大都会シリーズとしてパート3まで作られますが、「闘いの日々」というサブタイトルは入りません。
「闘いの日々」は、他の刑事ドラマのような“刑事と犯人の対決”だけでなく、そこに新聞記者が絡み、犯罪報道とは何だろう、社会正義とは何だろう、ということを考えさせるより高次な作り方になっていること。
そして、犯人が組織的犯罪、簡単に書くと暴力団関連事件の非業を描いていることです。
刑事ドラマは当時からたくさんありましたが、個別に何々組若衆が逮捕されることはあっても、特定の暴力団組織をドラマを通して一貫した敵として位置づけたものはありませんでした。
しかし、あまりに高次すぎて評判は今ひとつだったので、パート2からは派手なドンパチの刑事ドラマに路線を変更したのです。
視聴率やうわべの面白さではなく、ドラマの質としてみた場合、私はこの「闘いの日々」の方に軍配を上げたいと思います。
浮浪雲
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浮浪雲』(1978年4月2日~9月10日、石原プロ/テレビ朝日)は、ジョージ秋山原作による同名の漫画のドラマ化です。
舞台は幕末の品川宿。
武士から飛脚問屋に転職した「夢屋」のカシラが雲(渡哲也)。女房はかめ(桃井かおり)。
息子は新之助(伊藤洋一)。原作には娘もいるのですが、ドラマは3人家族です。
「夢屋」は番頭・欲次郎(谷啓)が切り盛りし、志賀勝、小鹿番、佐藤蛾次郎、苅谷俊介、片岡五郎、岩尾正隆らの“雲助”を抱えています。
欲次郎(谷啓)は時折、雲(渡哲也)にしっかりはたらくよう説教はするのですが、“雲助”たちは仕事のじゃまをされたくないので、「カシラは遊んでいてください」といいます。
雲(渡哲也)はその指示に従って、昼はナンパ、夜は芸者・おちょう(岡田可愛)と酒を飲んで「あっち向いて、ホイ」や野球拳で遊んでいます。
新之助(伊藤洋一)は、青田師範(柴俊夫)の主宰する寺子屋に通う真面目な子ども。
時々雲(渡哲也)の生き方に疑問を抱くのですが、ご近所の長老・渋沢老人(笠智衆)に相談に乗ってもらい、逆に父の器の大きさを再評価することになります。
渡哲也というと、「石原プロのスター」として、『大都会』や『西部警察』に絞ってストイックな刑事を演じ続けましたが、本当は本作のような人間味を表現する芝居が真骨頂だったと思います。
その意味では、貴重な作品です。
西部警察
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西部警察』は、1時間ドラマのレギュラー番組として3回(1979年10月14日~1982年4月18日、1982年5月30日~1983年3月20日、1983年4月3日~1984年10月22日)、さらにスペシャル番組として2004年10月31日に放送されました。
タイトルで分かるように、石原プロ制作の刑事ドラマです。
刑事物に分類できる作品は他にたくさんありますが、同じ分野の作品と違うのは、とにかくピストル、拳銃打ちっぱなし、家屋や車は本当に燃やす、壊す。中には市電を爆破させたことも。
平均視聴率14.5%では見合わないようなコストがかかっていました。
そして、事件は同情する余地のない悪いやつによる凶悪犯罪。
刑事ドラマでも、切った張ったのシーンがない「人情モノ」や、犯人の葛藤に焦点をあてた心理描写重視のものもありますが、そうした作りとは対極にあります。
とにかく、理屈抜きでインパクトの有るわかりやすい勧善懲悪アクションドラマにしようということだったんでしょう。
出演は石原裕次郎、渡哲也、舘ひろし、寺尾聰、藤岡重慶、苅谷俊介、庄司永建、古手川祐子、佐原健二ほか。例の石原軍団ですね。ドラマの中では「大門軍団」と呼ばれています。
庄司永建の「ダーイモンくん」というカン高い声は物真似にも使われました。
ただ、当時はこのドラマは、あまりにも派手で荒唐無稽な感じが強くありました。
裏(日曜20時)には私好みのライトコメディなホームドラマもあったからです。
ただ、今見ると、そこまでするか、と思えるほど徹底する、こういう娯楽もありなのかな、という気もしています。
くちなしの花
渡哲也は、映画やドラマ出演だけでなく、歌もリリースしました。
その最大のヒット曲が、1973年にリリースした『くちなしの花』です。
この翌年、渡哲也は膠原病に倒れ、『勝海舟』を降板しますが、渡哲也をメディアから消すなとばかりに、こちらの曲がどんどん売れ、『紅白歌合戦』にも出場しました。
日活・東映時代
渡哲也は、スカウトされて日活に入社しましたが、本人曰く、「どこの就職先がなかったので」仕方なくお世話になったという趣でした。
そこで、誕生日も、兵庫県生まれで厳しい父親に育てられたのも、才能ある兄弟がいるのも、映画俳優に自ら望んでなったのではないところも同じである石原裕次郎と運命の出会い。
新人として撮影所の挨拶回りの際、他の先輩は座ったままの挨拶だったのに、すでに主力だった石原裕次郎だけは、食堂の椅子から立ち上がって、丁寧な物腰で「頑張って下さい」と励ましたといわれます。
渡哲也さんについては、次回は「大病からの生還」と「吉永小百合」について書きます。
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