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重度障碍者が津久井やまゆり園被告と面会してわかったことは…… [障害者]

重度障碍者が津久井やまゆり園被告と面会してわかったことは……

重度障碍者が、津久井やまゆり園被告と4通の手紙のやりとりを行い、実際に面会した様子をNNNドキュメントが取材。来る3月15日の放送に先駆けて、そのダイジェスト動画がFacebookに投稿されたのでシェアします。世間を震撼させた残虐な事件でしたが、どう考えるべきか、今回の動画で整理してみませんか。



残念ながら平行線に終わったが議論すべきテーマも


脳性まひがある重度の障碍者、八木勝自さん(65)は、意思疎通はできるけれど首から下が動かせません。

その八木さんが、植松聖被告に、「障碍者をかわいそうとか不幸というのは、健常者の一方的な押しつけであって、私たち障碍者から言えば、出来なくたっていいじゃないかと言いたいのです」「人が人を殺す権利はない」といった内容の手紙を送付。

すると、植松聖被告からは例によって「重度障碍者は安楽死すべき」という回答でしたが、手紙には被告が描いた絵も同封され、接見に応じるとの返信が。

動画は、横浜拘置所のやりとりを再現しています。


「人は長く生きていれば、誰だって1人や2人は殺したい人はいるが、絶対に実行してはならない」(八木さん)

「意思疎通が出来ない重度障碍者は人ではない。これは差別ではなく区別」(被告)

植松被告は結論以外はごくごく普通の青年だった。それだけに、『平行線』は予想よりも10倍、100倍深刻だ(八木さん)

「差別」と「区別」を分けたがる論調というのは、ネットにありがちなんですが、まあ文脈的にはだいたい、ただの差別なんですよね。

八木さんが言われている2点、

・障碍者をかわいそうとか不幸というのは、健常者の一方的な押しつけ
・人が人を殺す権利はない

に尽きると思うのですが、「予想よりも10倍、100倍深刻」になってしまう、つまり植松被告の「普通」の顔と、残虐な行為とのギャップについては、私たちが今後深めるべき議論のテーマであると思いました。

誰しもが毒親に転落し得るという謙虚さがないと……


たとえば私は、しばしば毒親について、このブログでも書きます。

しかし、その見方について、ネットの論調を見ると、一部認識とはズレがあるかな、と感じることがあります。

簡単に述べると、親には、虐待する「鬼畜」と、もう一方で「普通の親」がいる、という交わらない二元論で親の像をとらえ、自分は「普通の親」の側から「鬼畜」を非難する論調です。

でも私は、そんなふうに「他人事」には思えないのです。

「鬼畜」と「普通の親」は、紙一重というほどではないにしても決して交わらないわけではなく、濃淡や距離についてはさらに議論する必要はあるかもしれませんが、少なくともグラデ状につながったものではないかと思うのです。

つまり、誰でもそちらに転落し得る危うさはあるのではないかということです。

子どもに手をかけた親のすべてが、最初から犯罪を何とも思わない異常人格者かといえば、そうではないでしょう。

むしろ、最近は、しつけ、進学など、親として本来は放任であってはならないことについて「熱心」ではありますが、それが偏った価値観や異常な執念に基づいたがゆえの暴走につながっているケースが目立ちます。

その「暴走」も、最初から常軌を逸したものではなく、最初はありふれた威圧や体罰に始まり、それが成り行きでエスカレートして……というふうに。

そこには、しつけの体罰ならいい、とか、子どもを思う熱心さは許されるべきだ、といったありがちな考えが契機になっていると私は考えます。

ですから、「普通の親」はぜったいに「鬼畜」にはならないと断定するのは、見通し甘いだろうと思うのです。

話を戻すと、今回の植松聖被告のメンタリティを考える上で、いくらかでもそれと重なる面はないのか、ということを感じました。



人が人を(命を含めて)コントロールできるのか


殺人は悪い、というだけなら誰でもわかります。

では、「意思疎通の困難な重度障碍者」という条件がついてたらどうなんでしょう。

人が人を(命を含めて)コントロールできるのか」という根源的な命題がそこにはあり、そこでいささかでもブレがある人は、「障碍者は死なせても仕方ない」という結論に転落しかねない弱さをもっているのではないでしょうか。

今回の結論、言葉にすると、事件を他人事にせず自分のこととして考えよう、というベタなものですが、「鬼畜」と「普通」は絶対に違う、といえるほど人間は無謬でも万能でもないという危うさや謙虚さは心得ておきたいと改めて感じました。

NNNドキュメントは、明日の深夜24時55分から放送です。

障害者排除の論理を超えて: 津久井やまゆり園殺傷事件の深層を探る - 芳久, 阿部
障害者排除の論理を超えて: 津久井やまゆり園殺傷事件の深層を探る - 芳久, 阿部
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風太郎

差別と区別、暫く考えさせられました。
僕がこういう考え方を持つ時は、自己中心的に陥った時なのです。
人の行為を腹立たしく思う時がありますが、
冷静になり相手の立場に考えてみると、
そういう考え、やり方もあると悟ることができます。
by 風太郎 (2020-03-14 09:44) 

よーちゃん

リンク先の動画も拝見しました。
自分自身「殺したいと思うほど憎い」と思ったこともあり、
自分の中の毒の部分の存在は否定できません。
でも「殺しても良い」かどうかは別の問題。
瞬間的に「殺す権利がある」と感じても、
すぐに短絡的に行動しない「自分の心の強さ」を
意識的に持ち続ける努力が必要なのかな、と感じました。
うまく言えませんが。。。。
by よーちゃん (2020-03-14 10:06) 

kou

仕事柄障害を持つ方やご家族と接する機会が多かったですが、とらえ方は様々でした。疲れ切って投げやりになるご家族や絶望的になっているご本人。
でも、それを手助けするのが行政であるのですが、それが機能しているかと言えば疑問です。
でも、「殺す」という行動は絶対あってはなりません。植松聖被告の本音の本音を聞いてみたいと感じました。
by kou (2020-03-14 11:52) 

なかちゃん

誰でも毒親になりうる可能性というのにドキッとしました。
子どもが小さい時に、小さな子供に対して手を上げてしまったことがあります。子供は顔を大きく腫らしたまま保育所に行きました。
その子のお陰でボクはそんなことをしない親になることが出来ましたが、今から想い返しても恐ろしいことだと思います。

by なかちゃん (2020-03-14 13:00) 

Boss365

こんにちは。
人が人をコントロールは出来ません。
植松聖被告は論外ですが、現実的には最高刑。
揺れる心を埋める為に宗教等に救いを求めている人もいます。
自身に置き換えても状況で変わりそうな危うさがあります!?(=^・ェ・^=)
by Boss365 (2020-03-14 13:51) 

skeptics

>>人が人を(命を含めて)コントロールできるのか

人様に手をかける事件は、全てここに尽きます。
考えさせられますね、考えさせられます。
by skeptics (2020-03-14 16:22) 

ヨッシーパパ

悲惨な事件でしたね。

by ヨッシーパパ (2020-03-14 19:15) 

pn

相手がだれであれ襲ってきたら殺す気で立ち向かうけど実際は怖くて動けないだろうなぁ。
by pn (2020-03-14 21:35) 

そらへい

殺人は許されるものではありませんが
彼の考え方は彼自身だけの問題ではなく
我々にも投げかけている問題だと思います。
by そらへい (2020-03-14 22:37) 

mau

平行線の議論、見る方も辛い
by mau (2020-03-14 23:07) 

ナベちはる

人間の危うさや謙虚さ、いつどんな時も忘れてはいけないですね。
by ナベちはる (2020-03-15 01:27) 

エンジェル

差別と区別・・・理解が出来ません。なぜ殺人に結びつくのでしょう?
by エンジェル (2020-03-15 13:33) 

Rinko

長女が生まれたばかりで初めての子育て中だった時、「虐待しない親」と「虐待する親」は紙一重なのかも・・・と思った瞬間を覚えています。
誰にでも起こりうる心のボーダー越え。自覚していきたいですね。
by Rinko (2020-03-16 08:35) 

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