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渋谷駅で子供を蹴り上げる母親の動画、撮影と公開はそんなに悪いか [社会]

渋谷駅で子供を蹴り上げる母親の動画が、約一月ばかり前に話題になりました。かなり亀なんですが、いまさらそのことを取り上げたいと思います。撮影者が批判されることについて、一部どうしても賛成出来ない点があるからです。だったら、知らんぷりして通り過ぎた多くの通行人の方がよほど問題だと私は思うのですが、ネット議論の価値観は、とにかく“攻撃する口実があるかどうか”にあるような気がしてなりません。

渋谷駅で子供を蹴り上げる母親。

渋谷駅

動画もアップされていましたが、静止画の方をご紹介しておきます。

虐待!!渋谷駅で子供を蹴り上げる母親


渋谷駅で、母親と思しき女性がすわりこんで泣いている女の子を罵倒し、それだけではおさまらずに、少し離れて歩きはじめたお子さんを蹴りあげているシーンです。

蹴られて、ちょっとこわい倒れ方をしています。

撮影者が、「警察呼ぶぞ」「ビデオに撮ったぞ、おい」と言ったことで暴力は止まりました。

この動画が発表され、ネット掲示板や個人ブログなどでは、もちろん、まずは母親に非難が集まりました。

それは当然として、その次に攻撃されているのがこの動画の撮影者です。

批判の内容はだいたいこんな内容です。

「こんな動画をインターネットに載せるなよ」
「撮影してないで暴力を止めるべきだった」
「親子の問題で警察呼ぶのは間違っている」等々

批判のすべてが、必ずしも、悪意やたんなる賑やかしではないとは思います。

が、私は、2つの理由で、それらの批判書き込みは結論として「違うだろう」と思いました。

はっきりいえば、それらの批判は、その場にいない人のお気楽なキレイ事論評だと思いました。

撮影の是非、ネットへの発表の是非が議論になるのは、人としてはわかります。

一般人の一般論としてはそれでいいと思います。

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そうでなくても、目立とう精神で、非常識な撮影をネットに公開する騒動が相次いでいるときです。

しかし、これはヤラセやウケ狙いから非常識なシーンを撮影した「仕込み」ではなく、第三者が引き起こした見過ごせない突然の出来事を撮影したものであり、そもそも出発点が違います。

撮影すべきでないという見方とともに、撮影することの意義も同じぐらいあるのだということを考えていただきたいと思います。

そして、もうひとつ忘れてならないのは、

人に何かを伝えるということは、

ときとして倫理やモラルの埋没とのたたかいがある

ということです。

この動画の公表にあたって、撮影者はどう考えたでしょうか。

ネットで罵倒されるかもしれない、でもこの出来事を世に問いたい、問うだけの意味や価値はある、

そんな葛藤があって、最後は公表するという結論になったのでしょう。

もちろん意見は自由ですが、「表現の自由」には配慮してほしいと思うのです。

作家にしろ、ジャーナリストにしろ、カメラマンにしろ、みなその葛藤で仕事をしています。

今回の撮影者がどういう人かは知りません。

が、職業マスコミ人ではなくても、公益性があると見込んだ出来事を世に発表する立場になった時点で、同じことがいえるのです。

別の言い方をすれば、モラルや倫理とたたかえない腰抜けの「善良な市民」は、クリエーターになってはいけないのです。

自分の文章がうまいのではないかとうぬぼれている作家志望者が巷間多いようですが、そんなことより、自分にインモラルな勇気があるかどうか、世間の良識とやらと戦える強さがあるか、よく考えてみることです。

そもそも今回は不法行為ともいえないでしょう。

なんだかんだ言って、この撮影があったから、動画が残り、人々はこの出来事を議論できるのです。

つまり、撮影してネットに発表したことの公共性、公益性はあります。

では相手のプライバシーは?

怒鳴ったりけったりしている行為は明らかですが、顔はわかりません。相手だって、名乗りを上げることはないでしょう。ということは、プライバシーを侵害した不法行為にもならないでしょう。

もうひとつ。個人的にはこの書き込みが何より嫌でした。

「撮影者は暴力を止めるべきだった」
「警察呼ぶぞ、という言い方はまずかった」

ネット掲示板でありがちな、ニュースに対する机上の空論や結果論のコメント。

よくもそんな現実味のない書き込みができるなあと思います。

あんたねえ、突然、自分がそういう出来事に出くわたらどうかって想像してみなさいよ。

母親が蹴る前にそれを止めることなんかできないだろう

撮影者は、「警察呼ぶぞ」「ビデオに撮ったぞ、おい」ととっさに怒鳴った。

それによって、母親も暴力を止めたんです。

母親の暴力行為を警察に突き出すべきかどうか自体に議論はあるかもしれませんが、少なくとも撮影者は本当に警察につきだしたわけではないのです。

撮影していて、声で止めることしかできない。しかも、出来事が突然のことで心の準備だってできていない。

でも、撮影者も、自分が目の当たりにしている事態を解決しようと必死だったのです。

だから、暴力を止めさせるために、緊急な警告としての「暴言」や「威嚇」をした。

そして、それが精一杯だった。

なのに、ネット民はそれすらも許容できないというのでしょうか。

だったら、この撮影者を批判するネット民は、再現性のある模範解答をもっているというのでしょうか。

私も3年前、不慮の火災で、ネット民の無責任なコメントに傷つけられたことがあります。

私が火災現場に飛び込まなかったから、妻子が意識不明の重体になったと書き立てられました。

飛び込んだらならなかったという事態なら、そして飛び込めたら、飛び込んでいます。

そもそも私は、出火時に現場にいませんでした。

島国根性の、ジェラシーとコンプレックスばかり肥大化した我が日本人は、何か口実さえあれば安心してかさにかかって人の誹謗を堂々とやりだすのですが、実態と両立しない「ればたら」論をいくらまくしたてても、そこから真実に接近することはないでしょう。

今回の撮影者に対するネット民のさかしらなコメントは、私の時と同じなんですね。

いいかげんしろよ、と思います。

私は、母親が暴力をふるうに至った理由は、いろいろあるんだろうな、と察します。

綺麗事で、親は無謬であれ、などと主張する気は毛頭ありません。

でも、こういう場で、こういう形で子どもに接するのはどうなんでしょうか。

蹴りあげてうちどこが悪かったら大変なことになります。

やはり親として間違いは間違い。とうてい容認できることではないと思います。

しかも、公衆の面前で堂々とやっているわけですし、第三者がどう思い、どう対応するか、それこそ撮影されることも含めて、覚悟すべきだと私は思います。

同じことをやっている親は、撮影するなってかばうでしょうけどね(笑)

みなさんはどう考えましたか。

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