『究極の愛について語るときに僕たちの語ること』(コエヌマカズユキ著、青月社)という書籍がいろいろなサイトで話題になっています。6パターンの「世間一般の『ふつう』とは違う恋愛」の当事者に話を聞いています。遷延性意識障害の妻を介護し続ける話は、私にとってどうしても読んでおきたい一冊でした。
『究極の愛について語るときに僕たちの語ること』は、簡単に言うと「人から物珍しがられる愛」ということらしい。
「障害者と風俗嬢のカップル」「ネットだけで展開される恋」「人形を愛する男」といった人たちが出てきて、自分の気持や体験を赤裸々に告白しています。
もっとも、私は興味本位でそれらを知りたかったわけではありません。
その中の一人、「白雪姫を待ちながらー植物状態の妻を介護しつづける男ー」という章を読みたかったのです。
たこつぼ型心筋症による低酸素脳症で、突然遷延性意識障害となった妻を7年半介護している人の話です。
この方は福寿草というハンドルネームで、ウェブリブログにおいて「遷延性意識障害の妻を支えて」というブログを運営されています。
「遷延性意識障害の妻を支えて」トップページより
遷延性意識障害については、このブログではもう何度も書いていますが、自分の力で自分をコントロールすることもできないし他者と意思の疎通もできない状態を言います。
私個人の感想を言えば、他の5パターンと、福寿草さんをひとくくりにするのはどうかなという気がします。
最初から遷延性意識障害の女性と結婚したというなら、まだ同書の趣旨としてはわからなくもありませんよ。
が、福寿草夫人の場合、もともと「植物状態の妻」だったわけではなく、普通に結婚した普通の夫婦が、ある日突然のアクシデントでそうなってしまったのです。
自らの価値観で、「人から物珍しがられる愛」を選んだ他の人たちと同列に取り上げられることで、その不幸がどういう形で読者に受け止められるのか、やや心配なところもあります。
ただ、どういう形であれ、介護特集以外の企画で取り上げられることで、遷延性意識障害の介護生活が、より多くの人に知られるのは悪いことではないので、そのへんは評価が難しいところです。
スポンサードリンク↓
不幸のどん底に叩き落された心境は……
それはともかくとして、他人に不寛容な私にとってはたぶん、人生唯一の恩人がこの福寿草さんです。
私が3年前の火災で、妻は心肺停止の第三次救命救急患者、長男はJCS300、次男は肺炎を繰り返してともに危篤状態でICU行き。
これ以上ない生き地獄にあったとき、同じような立場の人をネットで探しまわり、面識もないのにメールで相談した相手が福寿草さんでした。
そのときいただいたアドバイスや励ましはその後の対応を助けてくれましたし、ブログの過去記事を拝見して気持ちも落ち着いたものです。
同書には、ブログでも読んだことがなかった福寿草さんの気持ちが率直に書かれています。
神社巡りが好きだったが、妻がひどい目に合わされたから行かなくなった
腹の底から笑えなくなった
好きだったプロ野球も以前のような情熱はわかない
若い女性にも興味がもてない
妻が障がい者になったから離婚する、という発想はない
将来が不安だ
今まで泣かなかったが、それはあまりにも過酷な現実をこなしていくことで精一杯だから
あとは、生まれ変わっても妻と一緒になると即答していません。
理由は、今の人生がひどいから、生まれかわれるのなら違う人生を生きたいので妻と知り合うかどうかわからないから、というようなニュアンスだと思いました(ここは不正確かもしれません)
いずれにしても、ひとつひとつが、そうだよね、と思うことばかりです。
私はもともと神社巡りはしませんが、今はもう、亡父の墓参りや先祖の年忌法要も一切やっていません。それまでは4代前の先祖まで命日をきっちりチェックしていたんですけどね。
たぶん生涯やらないと思います。
私が不幸になったので、先祖もペナルティを受けるべきだと思っているからです。
地震でもびくともしなかった福島の先祖の墓も、2度とお参りするつもりはないので、いずれ永代供養にしてもらって縁を切ろうと思っています。
もうひとついいたいのは、福寿草夫人にしろ、そして私の妻子にしろ、命は助かっているわけですが
それをもって
死ぬよりマシだ。死ぬほうがもっと不幸だ
と、勘違いした慰め(?)をいう苦労知らずの人がたまにいるんです。
あのねえ、
そんな単純なもんじゃないんですよ。
亡くなることは不幸であるし、その喪失感は心の中に残りますが、そこでひと区切りになります。あとはその人の気持ち次第。
でも、遷延性意識障害になった人や、生涯介護し続ける人生はどうでしょう。
自分の人生詰んじゃって、心から笑うこともなく配偶者を儚く思い、日々の介護それ自体も大変。
残りの人生、本人も介護する人も日々が罰ゲームです。少なくとも私はそう思います。
ですから、重度後遺障害と死亡を比べて、どっちが不幸か、なんて比較など無意味だしできないのです。
福寿草さんのブログには、まだご夫妻が若くて新婚の頃、浴衣で写っている写真があります。
「いつかまた、こういう写真を撮れる日が来ることを信じている」という説明書きを、私はいまだにもらい泣きせずに読むことができません。
Facebook コメント