『二十一歳の父』(1961年、松竹)という映画を見ました。エリート一家の家風に合わない次男坊が、盲目の娘と学生結婚する話です。曽野綾子原作。今まで何度か映画化やドラマ化されていますが、これまでわからなかった「作品の主役」が誰なのかが今回わかったような気がしました。
作品は、So-netブログで映画のレビューを書かれている『
のんびり。』の青山実花さんからのご紹介です。いつもありがとうございます。
これまでにも、このブログ「戦後史の激動」では、「
『カックン超特急/脱線三銃士』で由利徹を久々に拝見」「
『アジャパー天国』3大喜劇人そろい踏み映画を鑑賞」など、ご紹介いただいた作品のレビューを書きました。
さて、今回のあらすじ。
原作は50年以上前に出ていますし、何度か映画化やドラマ化されているのでネタバレ御免です。
山本圭演じる21歳の学生・酒匂基次は、父(山形勲)がマスコミ企業の重役、兄(高橋幸治)がエリート銀行員の一家です。
ハイソサエティな家風に反発した基次は、家を出てパチンコ屋のアルバイトとエキストラで身過ぎ世過ぎ。その時知り合った、盲目の好子(倍賞千恵子)と学生結婚します。
父親も兄も、内心賛成出来ないけれど、理性を優先して感情的に反対はせず彼らを見守ります。
基次の友人・越秋穂(勝呂誉)は、学者の父親(宮口精二)をもち、学生でありながら金貸し業を行う「不良」。その点で、基次とは心を通い合わせることができる親友であり、また基次の結婚生活を羨ましいと思っていました。
やがて、盲目の嫁には子どもが生まれますが、不慮の事故で2人とも亡くなります。
不幸なことではあったけれども、これで出直せるのではないかと考えた父と兄ですが、基次は自ら命を絶ってしまいました。
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真の主人公は……
さて、この作品。原作は読んでいないのですが、かつて私はテレビドラマで2度見ています。
『二十一歳の父』(1974年、TBS花王愛の劇場)
大和田獏(基次)、島かおり(好子)、山内明(父)
『早春の光』(1977年、NHK銀河テレビ小説)
下塚誠(基次)、吉沢京子(好子)、長門裕之(父)
どちらも帯番組でした。
人選でわかるように、テレビではヒロインに重点を置き、息子役はどちらかというとそれより格下の若手俳優。父親も脇を固める助演タイプです。
ドラマを見ていた頃から疑問に思っていたのは、
「さて、この作品、主役はいったい誰なんだろう」
ということでした。
物語って、主役の視点や振る舞いを通して何かを訴えたいわけですよね。
今回は、おおむね父親の山形勲の視点が強調されているかな、という気がしました。
ところが、メインタイトルに出てくる出演者の序列では、山形勲は2番手に表示。しかも6人一緒に出てくるそのひとりに過ぎません。
では、やはり基次と盲目の好子の夫婦が主人公なのか。
いえ、それも実感として乏しい気がしました。
基次の実家は、温厚で紳士然とした父や、理路整然とした兄のいる家庭です。
見ようによっては冷たいかもしれないけど、決して絵に描いたような悪役ではなく、私にはそれほど違和感がありませんでした。
むしろ、父親の冷静さにホッとさせられました。
兄の、「ねばならない」の上昇志向や啓蒙調は共鳴できるかどうかは別として、それもひとつの見識であると受け入れることはできます。
それに対して、なぜ自分はその家庭を受け入れられないのか、という基次の苦悩や葛藤はそれほど克明には描かれていません。
ですから、基次は、見ようによっては、むしろ“ちゃんと”生きられない生き方を示す狂言回しの役どころにすら見えました。
盲目の嫁・好子に至っては、山形勲との初対面のシーン以外にこれといった見せ場もなく、たとえば妊娠したときに何か葛藤するところでも見せるのかと思えばそれもなし。
う~ん。では真の主役は一体……。
作品の最後のシーンで気づきました。
勝呂誉が演じる、息子の友達、越秋穂だったのではないでしょうか。
息子の友達という距離をおいた視点から、純愛や人間の生き方を問うということだったのではないかと思います。
秋穂も基次に刺激を受けて、自分も同級生(鰐淵晴子)と婚約します。
しかし、彼女は「お妾さん」の娘で非嫡出子。世間に対して身構えるようになり、自他ともに認める“人に好かれない女”です。
作中にそのシーンは出てきませんが、学者である父親は“外聞が悪い”身の上の彼女のことを疎んじて、必ずしもいい関係ではないことを秋穂は語っています。
大詰めのシーンで、秋穂は基次の生き方や基次の家庭を引いて、人の価値観を受け入れられない自分の父親のエゴを責めたてるのです。
基次の家庭が、絵に描いたような悪い人たちではないために、葛藤を描きにくく、作品としては物足りなさもあります。
が、80年代の大映ドラマではありませんが、兄嫁(岩崎加根子)が盲目の好子をいびりまくるようなシーンが出てきたら、それはそれで現実味を欠いた話になってしまうでしょう。
昭和30年代の松竹映画らしい作品だったのではないかと思います。
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