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ブラック企業は“善人”で“人格者”で勤勉なあなたにとって他人事か? [社会]

ブラック企業。もとは少し違う意味で使われていましたが、今や過重労働や違法労働で、人材を尊重しない企業のことをそう呼ぶようになりました。とくに2013年の「ブラック企業大賞」で大賞に輝いたワタミフードサービスは、その象徴のように名前が取り沙汰されます。皮肉たっぷりにいろいろな出来事を斬りまくる『実話BUNKAタブー』でも、ワタミは毎月何らかの形で記事に登場。今日は今月号の記事を見ていきます。

今や、ブラック企業の代名詞になった感のある、渡邉美樹氏が総帥のワタミ。

「夢」を実現するために、死者(自殺者)が出るほど労働強化をきわめたのに、2014年3月期決算では、連結最終損益49億円の赤字企業に転落。目指していた一兆円企業への夢は遠のいてしまいました。

では、それはどうしてか、と論考する中村淳彦氏(ノンフィクションライター)の署名記事です。

実話BUNKAタブー・渡邉美樹.png

「理念モンスター渡邉美樹の正体」というタイトルです。「集中連載第一回」と書かれています。

中村淳彦氏によれば、ワタミの凋落は、一方的に経営者に向いている理念経営をやり過ぎて、「矛盾まみれなことが起こ」ったことが原因といいます。

父権を振りかざす危険な擬似家族の「理念」と名づけていますが、「父」といっても現在の「家族」でイメージするような「父」ではなく、「家父長的」という表現の方がリアルかもしれません。

さらに、中村淳彦氏は、「理念経営」がワタミだけではないことを懸念。今も渡邉美樹氏を信奉する居酒屋や介護施設のオーナーたちは少なくなく、彼らについてインターネットを検索すればみな、「夢」「希望」「仲間」「同志」「熱い思い」「維新」「絆」「やりがい」「一生懸命」などという気恥ずかしくなるような“ポジティブ”な言葉を多用しているのが特徴とし、「業界全体に幼児性が漂っている」と厳しく論評しています。

「ポエム」は現実から目をそらせるもの


……「夢」や「希望」を口にして何が悪いんだ、と思いますか?

それは自分の胸に秘めておけばいいことであり、そもそも個人個人で違うものでしょう。

会社でスローガンのようにいわされる「夢」や「希望」の意味するものは、決して社員ひとりびとりにとってのそれらに道筋を掃き清めてくれたものではありません。

「夢」だの「希望」だのといった、「ポエムのようなふんわりとした表現を使い、内容があるのかないのかわからない言葉を多用」するのは、「現実から目を背けさせる、渡遽美樹と宗教団体・倫理研究所が開発した従業員を洗脳させるマネジメント方法」と中村淳彦氏は指摘しています。

まあ、本当にポエムのような実態ならいいのですが、居酒屋にしろ介護にしろ、すくなくとも現場で働く人々はとてもそんな状態ではないでしょう。
渡邉美樹が繰り返し言っていることは、誰もが簡単に納得する夢や常識や道徳である。
 渡遵美樹が巨大化した九〇年代、〇〇年代はバブル崩壊後で先の見えなかった時代だった。なにかにすがりたい人間たちが増殖するなか、渡邉美樹は強烈な父権を持って語ることで、それらの人間を根こそぎ取り込んで洗脳した。時代が生んだモンスターといえる。
要するに、自覚的主体的に人生の「夢」や「希望」を考えず、「強烈な父権」に委ねようとした思考停止の風潮が、人材をコマのように使うブラック企業を生んだのだと中村淳彦氏は述べているのです。

ブラックの温床はどこにあるのか


で、おそらくこれを読んだ限りでは、渡遽美樹氏を支持する人でない限り、記事については冷静に「そうだな」と思うでしょう。

そして、そんなブラックな企業に働く人に疑問すら抱くでしょう。「そんなとこ、つとめなきゃいいのに」と、他人ごとのように思っているかもしれませんね。

しかし、これは特別なことでしょうか。他人事でしょうか。

実はワタミだけの問題ではなく、むしろワタミを象徴的、教訓的なものとして見ておく必要があると私は思います。

現代の日本人に流行している思考や生き方を考えてみましょう。

失敗や不幸があっても、背景も客観的原因も見ず、他人のせいにもせず、万事は自分の立派な心がけで解決するとする「ポジティブシンキング」。

広告代理店が金儲けで仕掛けているにすぎないスポーツイベントなのに、マスコミが盛り上げ目的ででっちあげたやすっぽい見出しやお涙頂戴話に額面通り乗っかり、「勇気をもらった」と横並びのポエムな感想に満ち溢れる。

そんな「考えることを放棄した“善人”な国民性」こそが、まさに「強烈な父権」であるワタミなどの観念的雇用社会を作り上げてしまった何よりの温床ではないでしょうか。

他人のことは悪くいわない
批判や懐疑の精神は持たない
文句を言わずに働く
ネガティブな物言いは一切しない


こういう思考停止にすぎない感性を、社会は一方的に「美徳」としました。
為政者をはじめ、組織など縦社会の維持に都合がいいから。

私たちはその教えに飼い慣らされてしまった。
そのツケが、今あらわれているのではないでしょうか。

考える女.jpg

人の悪口は言いたくない、不遇不条理はあっても言い訳もせず「キレイ事」に生きたい。

そういう考え方・生き方をもちろん否定はしません。

ただし、一方で、おかしなことに異議を唱える価値も知っていただきたいのです。

ひとりひとりが、もっと“嫌な奴”を認める、もしくは、自分自身が他人の顔色をうかがわず“嫌な奴”になれる、本当の意味でもっとユルい社会になってもらいたいなと私は思います。



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