ジャイアント馬場の特集記事が、今週発売の『週刊実話』(2月13日号)に出ています。年忌法要にはあたりませんが、命日(1月31日)をはさんだ1月最終週か2月の第1週の号でどこかが記事にするんじゃないかなあと思っていたところ、やはり出ました。『週刊大衆』(2月17日号)の連載「1964年のジャイアント馬場」でも、ジャイアント馬場の何がすごかったかを改めて振り返っています。
まず、『週刊実話』(2月13日号)から。
こちらは、写真にキャプションを付けて振り返っています。個人的に特にこの2つが懐かしいです!
ひとつは、篠原長昭リングアナ。
私が知った頃は色のついたメガネをかけていました。ショーアップさせた独自の選手コールにもしびれて私は子供の頃、この人に憧れてよく真似をしました。立教大学の応援団出身でした。坂口征二とこの人には全日本プロレスに来て欲しかったなあ。
もうひとつは、テレビ中継のスポンサーである三菱電機のハッピ。
馬場が着てたのはオレンジ色だそうです。この少し後になって、カラー放送がたまに入るようになり、馬場や猪木がそれにあわせて派手な色のパンツを履いていましたが、この写真は1964年なので、さすがにカラー放送用ではないと思います。
ジャイアント馬場と力道山はレスラーとしての格が違った
『週刊大衆』(2月17日号)の連載「1964年のジャイアント馬場」によると、ジャイアント馬場はアメリカでは、師匠である力道山とは比べ物にならない大物レスラーだったと書いています。
力道山は日本のプロレス界の英雄のため、アメリカでも大きな試合をしたように日本のマスコミは書いていた(力道山がそうホラを吹いていた)が、実はロサンゼルス(日系人コミュニティ)のリングで戦うのがせいぜいで、本場アメリカでは全く無名のレスラーだった。つまり狭い日本でしか通用しないレスラーだった。
しかし、ジャイアント馬場は、ニューヨークやセントルイスなどの大会場でメインをはれるレスラーであり、力道山はそれに激しいコンプレックスを抱いていたが、一方で外人招聘の外貨を稼ぐ大切な戦力でもあったと書かれています。
それは、たんに力道山が日本で仕事をしているからアメリカで「無名」なのではなく、レスラーとしての格が全く違っていたのです。
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後に、グレート・ザ・カブキやグレート・ムタなど、アメリカでも名前が売れたレスラーは出てきましたが、誰も「ジャイアント馬場より稼いだ」「すごかった」という話にはならない、と連載には書かれています。
ジャイアント馬場は、世界に通用したプロレス史上最高のアジア人レスラーだったのです。
アントニオ猪木が長年挑発し続け、晩年になってからも、プロレス名鑑の「ライバル」欄を「ジャイアント馬場」としていたのは、そうした凄さを現役のレスラーだからこそ知っていたということでしょう。
グレート小鹿も連載において、ジャイアント馬場のレスラーとしての凄さをこうコメントしています。
「足の使い方、ロープの使い方、フットワーク、試合の流れの作り方。馬場さんは本当に素晴らしかった。力道山先生や豊登さんとは何から何まで違っていたし、合宿所の先輩だった猪木さんと大木さんを二人足したよりも馬場さんは上だった。
よく馬場さんは後期になって、アボーッって漫才師に真似されたりしたけど、ああいうのは僕らの頭の中にはない。いいときの馬場さんは物凄かった。(中略)
試合の流れの中で、どの場面で自分を大きく見せればいいのかを、馬場さんはわかっている。大きな鏡の前で研究したんじゃないかな。俺も見たことあるもの。
見たことのない技をいっぱいやった。ココナッツクラッシュ、椰子の実割りなんて全然知らなかった。こんなことをやるんだ、やれるんだ、という衝撃ね。自分はまだペーペーだったから、馬場さんをもっと見たい、同じ空気を吸いたいという思いが強かった。でもほんの数カ月でアメリカに持っていかれちゃったんだよ(笑)」
同じような話を、グレート・ザ・カブキも複数の媒体でしています。たとえばこの記事がそうです。
身体能力もズバ抜けていましたが、レスラーから見て、馬場さんが抜きん出ていたのは、試合をしながら、お客さんの気持ちを掴む能力。たとえば、相手に技をかけられているときも、お客さんの反応をうかがっている。それで、馬場コールが沸き上がったりすると、あえて技を返さずにぶっ倒れたりする。お客さんは馬場さんが反撃してくれると期待して声援を送っているのに、そこを裏切るわけです。そうすることで、お客さんは「大丈夫だろうか」と前のめりになる。相手のレスラーだけじゃなく、観客とも駆け引きしているんですね。
この能力の凄さは、リング下で見ているレスラーでもなかなか気付かないし、真似できるものでもない。
僕も馬場さんがやっていることの凄さを理解するまでに20年以上かかりました。(『週刊現代』2012年6月9日号)
この当時の映像はほとんど公開されていないし、そもそもあるかどうかもわからないので、ジャイアント馬場の長い晩年しか知らない世代には、おそらく永遠に理解できないんじゃないかと思います。残念ですよね。
ミスター・ヒトという、口を開けば馬場夫妻の悪口しか言わない元レスラーが昔いましたが、そのヒトでさえ、馬場>猪木、という評価は変えませんでした。
当時を経験している元レスラーや関係者が次々鬼籍に入っており、プロレスファンも当時を知る(覚えている)世代はずいぶん上の方になってしまいました。
可能な人たちで、ジャイアント馬場は何がすごかったか、どうしてすごかったのかを改めて明らかにする、上記の連載連載「1964年のジャイアント馬場」のような仕事が積極的に行われることを切に望みます。
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