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不幸者の父母考、親子関係も「死」のとらえ方も人それぞれ [社会]

『不幸者の父母考 親が死んではじめて気づいたこと』(勢古浩爾著、三五館)という書籍のレビューを、ある新聞で見ました。レビューのブログ記事も少しずつ出始めているようです。

取り上げるにはちょっと重いテーマかなとは思いましたが、誰もが無関係ではいられない話だと思ったので、さっそく読んでみました。

実は先日、So-netブログを利用するあるユーザーから、10日に1ぺんはほのぼのとしたテーマの記事を書けという苦情がありました。

が、このブログ「激動の戦後史」を読んでくださる方の多くは、私にそうした話は求めていないと思うので、今まで通りやらせていただきます。

本題に入ります。

不幸者の父母考 親が死んではじめて気づいたこと

著者の勢古浩爾氏は、12年前の54歳の時に母を失い、5年後に父を、その4年後に兄を失いました。そして本人も70歳を間近に控えています。

そこで勢古浩爾氏は、この『不幸者の父母考』という書籍で、「親の死」「自分の死」について思っていることを綴っています。

一口に述べると、東日本大震災以来、やたらやすっぽく流行している「絆」だの、右傾化した社会の中で復活しつつある旧来的な道徳観だのがはびこる昨今、同書はそんな建前やきれいごとなどを一切否定して、本音で親や自分について、いいことも悪いことも包み隠さず語るという内容です。

もちろん、亡くなった人(親)は美しく偲び、悪いことは一切忘れてしまうという一般的な美学を否定するわけではありません。

しかし、子は絶対に親孝行でなければならない、親を偲ぶとき親をネガティブに語るのは親不孝である、という紋切り型の「ねばならない」にとらわれて、親子関係をリアルに語りつくすことができるのでしょうか。

同書は、『不幸者の父母考』というタイトルだけあって、人々が称賛するような、感動や美談、親思いの美辞麗句などは一切出てきません。

自分はいい子供ではなかった、という自己批判とともに、自分の親のことも決して美化せず、「卑小」と書いています。自分が親を憎んだことも告白しています。

でも、親子といえども別人格なのですから、むしろそうした相克や恩讐や葛藤があった方がリアルではないかなと私は思います。

私にはそのリアルさ、率直さゆえ、ストンと胸に落ちることがずいぶんありました。

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出版社のリリースには、同書が述べているポイント4点が枚挙されています(最初からネタバレでレビュー要らずですね)。

・親の死はただ悲しいだけの出来事ではない。
・親が死んで、子どもが後悔するのは当たり前である。
・一般的な死などなく、だれにとっても死は、一人一人の個別的な出来事である。
・子どもはいつまでも父と母の子である。

本文はまず、親や兄弟が亡くなった現実に対して、著者自身は泣かずに受けいれるところから始まります。

「できることはできる、できないことはできない。人間の感情も心も、努力も覚悟も関係ない。成るものは成り、成らぬものは成らない。そして、死んだことは死んだことだ。その前では、人間は決定的に無力である」

勢古浩爾氏は冷静で、親が亡くなっても涙は流しませんでした。

かといって、肉親の死に全く心が動かなかったわけではなく、それどころか、母や父や兄の死でぽっかり空いた空間は、いつまでたっても空っぽのままだといいます。

この感覚、私はほんとーによくわかります。

私も約40年前に父を亡くしましたが、少なくとも人前では涙は流しませんでした。

私の母親は、そんな私のことを冷たい息子だとなじっていましたが、涙を流すことだけが、亡くなった人を偲び悲しむこととは限らないのです。

私はほとんどが父のいない人生のはずなのに、いまだに父の“いなくなった”喪失感というものを引きずって生きています。

また、私は2年前の火災で、妻子がもうだめだろうと言われたときも、妻子についてははかなむ気持ちを抱きましたが、自分自身がひとりぼっちになってしまうことについては、淡々と受け止めていました。

もちろん、悲しくないわけではありません。急な出来事で冷静に考えることができない状況だったからかもしれません。

しかし、それよりも何よりも、まさにこの著者が書いている通り、「人間の感情も心も、努力も覚悟も関係ない。成るものは成り、成らぬものは成らない」という心境にあったことが大きかったと思います。

不幸を繰り返していると、勢古浩爾氏でなくとも、人間はそういう心境になるものじゃないかなって思います。

後日、私のブログを閲覧したと思われる人が、別の人のブログで、独りぼっちでも生きていけるというのは強がりであるかのようなことを書いていました。

それが、私の意見を意識したものかどうかはわかりません。

どちらにしても、「成るものは成り、成らぬものは成らない」心境というものがある、ということは知っていただきたいのです。

勢古浩爾氏は、最近、親子の間で「生んでくれてありがとう」「生まれてきてくれてありがとう」という言い方がはやっているが、それは自己陶酔ではないかと懐疑しています。
 いつのころからか親子の間で、「生んでくれてありがとう」とか「生まれてきてくれてありがとう」という言い方が流行しているようである。第一感、またぞろ「感動をありがとう」やら「元気(勇気)をもらった」一派御用達のふやけた言葉だなと思い、苦々しい気持ちになった。
「生んでくれて」も「生まれてきてくれて」もどちらも心からの感謝というより、こんな気の利いた感謝の言葉を口にしている自分への甘ったるい自己陶酔があるように思われてしかたがない。こんな言葉、いったいだれがいいだしたのか。そして、どうしてこんな言葉をありがたがるのか、わたしにはまったくわからない。(中略)
「生んでくれてありがとう」だの「生まれてきてくれてありがとう」といった言葉を聞いたときの反応は人によって二つに分かれるにちがいない。なんて素敵で優しい言葉かしら、ちょっとかっこいいわね、というのと、なんて嫌なことをいうのだ、という二つである。
 わたしは昭和の昔の男だから、当然後者である。もう冗談じゃないのである。わたしはこのような甘えあった親子関係を好まない。むしろ家族とは恥ずかしいものだと思って育ってきた。そんなことよりも、戦後の苦しいなか、ここまで育ててもらったのに、こんな程度の男にしかなれずに申し訳ないという気持ちがある。

きっと勢古浩爾氏は、本気で親子関係を生きてきた人だと思うのです。

本気で生きてきたからこそ、家族、そして親子というもののいいところも悪いところもきちんと向き合っている。

親も卑小、子供も卑小、その卑小さゆえ、家族というものを「後悔」や「情けなさ」で語ることはあっても、自己陶酔の「ありがとう」なんてうわっつらの美辞麗句では語りたくない、ということなのです。

これもよくわかります。

そうなんです。夫婦であろうが親子であろうが、独立した人格の卑小な者同士の関わり合いについて、きれいごとだけでまとめられるはずがないのです。

赤の他人なら付き合わなければいいですが、家族はそうはいかない。

ましてや、親子というのはどこまでいっても親子です。やめたくてもやめられないことで苦しむことだってあって当たり前だと私は思うのです。

とことんまで親子をやったら、悲しむだけでもありがとうだけでもないだろう、という筆者の主張にはうなずくしかありません。

ことほどさように、同書の書き方は直截です。

そうした点がたまたま私の価値観と合っただけで、人によっては全く異なる、ただの「親不孝の独白」にしか読めないかもしれません。

ただ、そういった異論が出ることこそ、まさに勢古浩爾氏の言いたかったこと、すなわち「一般的な死などなく、だれにとっても死は、一人一人の個別的な出来事である」ことの証左でもあると思います。

同意するもよし、批判するもよし。

いずれにしても同書は、親子関係について考えてみるきっかけになると思います。

不孝者の父母考

不孝者の父母考

  • 作者: 勢古浩爾
  • 出版社/メーカー: 三五館
  • 発売日: 2013/04/23
  • メディア: 単行本


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