中島らもさんが大麻所持で有罪判決を受けた日 [社会]
中島らもさんといえば、コピーライターとして、作家として1980年代~2000年ごろに活躍した人です。その3年後、妻の美代子さんが、夫との生活を描いた『らもー中島らもとの三十五年』(集英社)を上梓して話題になりました。その中島らもさんが大麻所持で有罪判決を受けたのが、2003年5月26日でした。
中島らもさんが「大麻を使っている」との情報が寄せられ、厚労省近畿厚生局麻薬取締部は、2003年に入ってから内偵捜査を進めていました。そして2月4日午後、満を持して捜査員二人が兵庫県宝塚市の中島宅を家宅捜索。大麻とマジックマッシュルームを発見して逮捕しました。
押収したのは、大麻たばこ5本(計約2グラムー1グラムの末端価格は約2000円)、乾燥大麻約4グラム(末端価格は約2600円)、マジックマッシュルーム約3グラム、および吸引するためのパイプなど。押収した大麻とマジックマッシュルームは計約2万円相当でした。(『日刊スポーツ』2003年2月6日付)
中島らもさんのプロフィールは、進学校として知られる私立灘高校を中退して大検合格から大阪芸術大学放送学科に進学。卒業後は広告代理店勤務を経て1986年にフリーのコピーライターになります。
朝日新聞の連載「明るい悩み相談室」で人気を集めた後、エッセーや小説で活躍。1992年には『今夜、すべてのバーで』(講談社)で吉川英治文学新人賞を、1994年には『ガダラの豚』(実業之日本社刊)で日本推理作家協会賞を受賞しました。さらには音楽活動、劇団旗揚げなども行っています。
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ただもともと神経が繊細なのか、20代からそううつ病やアルコール依存症に苦しんでいたようです。2002年10月に上梓されたうつ病体験を書いた『心が雨漏りする日には』(青春出版社刊)は、アルコール中毒の悪化によって夫人が口述筆記していたことも自ら明かしていました。
薬物については、かねてから大麻解放論者であり、自説をエッセイで述べたり、海外での薬物使用体験を小説化したりしていました。それらを読むと、中島らもさんの「薬好き」は前述のよぅに精神的に依存する面もあるのでしょうが、灘高校中退に見られるような、「おれは頭がよくて、かつ俗物でもない」と自負する、選民思想の裏返しでもあるように思われます。
「結局、知識なんや。どれだけやればどうなる、と知っていることが大事でね。『麻薬はぜんぶ毒だ』って言う人って、あんまり知識はないね。一方で『痩せる薬だ』とか言われて、主婦がシャブに走る。毒も薬も、知識次第やな。(中島らも・いしいしんじ『その辺の問題』角川書店)
これは中島らもさんの我田引水です。知識だけで物事が済むのなら、世の中は「おたく」だらけになってしまうでしょう。人間の判断は知識と価値の統一的所産であり、そこには規範や道徳も含まれるはずです。
中島らもさんは躁病治療のため、その3日後の28日から大阪市内の病院に入院。初公判は病院から駆けつけることになりました。
4月14日に行われた大阪地裁(西田真基裁判官)の初公判。弁護人質問で中島らもさんは、大麻使用のきっかけを「インドやオランダなど合法国で吸引した経験からのノスタルジー」と説明し、「創作に行き詰まり、ギザギザした精神を酒では癒やせなかった」と証言。
検察側の冒頭陳述によれば、中島らもさんが大麻を始めたのは19歳のときで、美代子さんの実家の土地で大麻を栽培し、数十キロ単位で収穫して友人に分けていたこと、今回は大阪市北区で密売人から30グラムを10万円で購入したことなどを述べています。(『日刊スポーツ』2033年4月14日付)
美代子さんには大麻使用を注意されても「見つからないからいいんだ」と耳を貸さず、長男には「おまえも吸うか?」と使用を勧めたこともあったといいます。
また、中島らもさんは起訴事実を「相違ございません」と認め、「斬鬼の念に堪えません。日の当たるところで活動し、みそぎとしたい」と再起を誓ったものの、その一方では相変わらず「日本の大麻取締法違反は、根底的にナンセンスと思っていた。逮捕、拘束されて(自分の)時間が奪われるから今後は絶対に手を出さない」と持論を譲らず、弁護人に「聞かれたことに簡潔に答えてください」と注意される場面もあったといいます。検察側が「今後、創作に行き詰まったときはどうする」と質問すると、「拘置所で覚えたヨガをします」などといなしたように答えるなど、終始噛み合わず、検察は「再犯の恐れが大きい」として懲役10月を求刑しました。(『日刊スポーツ』2003年4月15日付)
判決公判が行われたのは5月26日。西田真基裁判官は「読者に与えた影響は軽視できないが、今後は執筆活動で信頼を回復すると誓い、被告なりに反省している」として、懲役10月、執行猶予3年(求刑懲役10月)の有罪判決を言い渡しました。
西田裁判官は判決を言い渡した後、中島らも被告にこう語りかけました。
「今後の執筆活動に期待を寄せる読者の存在を忘れないでください」(『スポーツニッポン』2003年5月27日付)
中島らもさんは閉廷後、報道陣に「〝牢屋でやせるダイエットの本″を7月に出すつもり」と話し、7月19日にはその予告通り、『牢屋でやせるダイエット』(青春出版社)の発売記念サイン会を大阪市内で行いました。
久しぶりに公の場に姿を現した中島らもさんは、月一回程度の通院を続けていると言いながらも、「今後の執筆活動に期待を寄せる読者」の前にして「みなさまにおわびしなければならない」と、両手におもちゃの手錠をはめて登場。会場をわかせました。(『スポーツ報知』2003年7月20日付)
しかし、その翌年、階段から落ちてあっけなく亡くなってしまいました。
中島らもさんのことを思い出すと、やはり覚せい剤で捕まった田代まさし受刑者を思い出してしまいます。
なぜかというと、田代まさし受刑者は、視聴率のプレッシャーで転落したと語ったからです。
中島らもさんも、そううつ病といいますから、人気作家として創作を商売にするのは本当はきびしかったのではないでしょうか。
世の中には、作家やタレントになりたくてもなれない人がたくさんいると思いますが、一方でなれても精神的にしんどいうという人も……。世の中はうまくいきませんね。
中島らも被告に大麻所持で有罪判決大阪地裁【大阪】 自宅に大麻約6・4グラムを所持していたとして、大麻取締法違反(所持)の罪に問われた作家の中島らも(本名・中島裕之)被告(51)に対し、大阪地裁は26日、懲役10カ月執行猶予3年(求刑懲役10カ月)の有罪判決を言い渡した。西由真基裁判官は「法廷での被告の大麻取締法への否定的な態度が青少年らに与えた影響は軽視できないが、今後は法に触れる行為をせず、執筆活動を続けることで信頼回復に努めると誓っている」と量刑理由を述べた。
中島被告は公判で「執筆活動でギザギザになった精神をいやそうと思った」と起訴事実を認める一方、「大麻解放論者」としての持論を展開。「大麻はひとつの文化であり、大麻取締法は根本的にナンセンスだと思うが、それでつかまるほどばかばかしいことはない」などと述べた。(2003年5月26日『朝日新聞』大阪夕刊)
中島らもさんが「大麻を使っている」との情報が寄せられ、厚労省近畿厚生局麻薬取締部は、2003年に入ってから内偵捜査を進めていました。そして2月4日午後、満を持して捜査員二人が兵庫県宝塚市の中島宅を家宅捜索。大麻とマジックマッシュルームを発見して逮捕しました。
押収したのは、大麻たばこ5本(計約2グラムー1グラムの末端価格は約2000円)、乾燥大麻約4グラム(末端価格は約2600円)、マジックマッシュルーム約3グラム、および吸引するためのパイプなど。押収した大麻とマジックマッシュルームは計約2万円相当でした。(『日刊スポーツ』2003年2月6日付)
中島らもさんのプロフィールは、進学校として知られる私立灘高校を中退して大検合格から大阪芸術大学放送学科に進学。卒業後は広告代理店勤務を経て1986年にフリーのコピーライターになります。
朝日新聞の連載「明るい悩み相談室」で人気を集めた後、エッセーや小説で活躍。1992年には『今夜、すべてのバーで』(講談社)で吉川英治文学新人賞を、1994年には『ガダラの豚』(実業之日本社刊)で日本推理作家協会賞を受賞しました。さらには音楽活動、劇団旗揚げなども行っています。
ただもともと神経が繊細なのか、20代からそううつ病やアルコール依存症に苦しんでいたようです。2002年10月に上梓されたうつ病体験を書いた『心が雨漏りする日には』(青春出版社刊)は、アルコール中毒の悪化によって夫人が口述筆記していたことも自ら明かしていました。
薬物については、かねてから大麻解放論者であり、自説をエッセイで述べたり、海外での薬物使用体験を小説化したりしていました。それらを読むと、中島らもさんの「薬好き」は前述のよぅに精神的に依存する面もあるのでしょうが、灘高校中退に見られるような、「おれは頭がよくて、かつ俗物でもない」と自負する、選民思想の裏返しでもあるように思われます。
「結局、知識なんや。どれだけやればどうなる、と知っていることが大事でね。『麻薬はぜんぶ毒だ』って言う人って、あんまり知識はないね。一方で『痩せる薬だ』とか言われて、主婦がシャブに走る。毒も薬も、知識次第やな。(中島らも・いしいしんじ『その辺の問題』角川書店)
これは中島らもさんの我田引水です。知識だけで物事が済むのなら、世の中は「おたく」だらけになってしまうでしょう。人間の判断は知識と価値の統一的所産であり、そこには規範や道徳も含まれるはずです。
中島らもさんは躁病治療のため、その3日後の28日から大阪市内の病院に入院。初公判は病院から駆けつけることになりました。
4月14日に行われた大阪地裁(西田真基裁判官)の初公判。弁護人質問で中島らもさんは、大麻使用のきっかけを「インドやオランダなど合法国で吸引した経験からのノスタルジー」と説明し、「創作に行き詰まり、ギザギザした精神を酒では癒やせなかった」と証言。
検察側の冒頭陳述によれば、中島らもさんが大麻を始めたのは19歳のときで、美代子さんの実家の土地で大麻を栽培し、数十キロ単位で収穫して友人に分けていたこと、今回は大阪市北区で密売人から30グラムを10万円で購入したことなどを述べています。(『日刊スポーツ』2033年4月14日付)
美代子さんには大麻使用を注意されても「見つからないからいいんだ」と耳を貸さず、長男には「おまえも吸うか?」と使用を勧めたこともあったといいます。
また、中島らもさんは起訴事実を「相違ございません」と認め、「斬鬼の念に堪えません。日の当たるところで活動し、みそぎとしたい」と再起を誓ったものの、その一方では相変わらず「日本の大麻取締法違反は、根底的にナンセンスと思っていた。逮捕、拘束されて(自分の)時間が奪われるから今後は絶対に手を出さない」と持論を譲らず、弁護人に「聞かれたことに簡潔に答えてください」と注意される場面もあったといいます。検察側が「今後、創作に行き詰まったときはどうする」と質問すると、「拘置所で覚えたヨガをします」などといなしたように答えるなど、終始噛み合わず、検察は「再犯の恐れが大きい」として懲役10月を求刑しました。(『日刊スポーツ』2003年4月15日付)
判決公判が行われたのは5月26日。西田真基裁判官は「読者に与えた影響は軽視できないが、今後は執筆活動で信頼を回復すると誓い、被告なりに反省している」として、懲役10月、執行猶予3年(求刑懲役10月)の有罪判決を言い渡しました。
西田裁判官は判決を言い渡した後、中島らも被告にこう語りかけました。
「今後の執筆活動に期待を寄せる読者の存在を忘れないでください」(『スポーツニッポン』2003年5月27日付)
中島らもさんは閉廷後、報道陣に「〝牢屋でやせるダイエットの本″を7月に出すつもり」と話し、7月19日にはその予告通り、『牢屋でやせるダイエット』(青春出版社)の発売記念サイン会を大阪市内で行いました。
久しぶりに公の場に姿を現した中島らもさんは、月一回程度の通院を続けていると言いながらも、「今後の執筆活動に期待を寄せる読者」の前にして「みなさまにおわびしなければならない」と、両手におもちゃの手錠をはめて登場。会場をわかせました。(『スポーツ報知』2003年7月20日付)
しかし、その翌年、階段から落ちてあっけなく亡くなってしまいました。
中島らもさんのことを思い出すと、やはり覚せい剤で捕まった田代まさし受刑者を思い出してしまいます。
なぜかというと、田代まさし受刑者は、視聴率のプレッシャーで転落したと語ったからです。
中島らもさんも、そううつ病といいますから、人気作家として創作を商売にするのは本当はきびしかったのではないでしょうか。
世の中には、作家やタレントになりたくてもなれない人がたくさんいると思いますが、一方でなれても精神的にしんどいうという人も……。世の中はうまくいきませんね。
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