旧優生保護法下で、不妊手術を強制されたとして、宮城県内の60代女性が仙台地裁に国家賠償請求訴訟を起こすと報じられています。女性は個人の尊厳や幸福追求の権利を保障する憲法に違反という意見を述べていますが、ネットでは障害者が親になる事に2つの“懸念”を示しています。
優生保護法が犯した罪―子どもをもつことを奪われた人々の証言 -
優生保護法というのは、1948~1996年まで施行された法律です。
障害や遺伝性の病気などを理由に、本人の同意のないまま不妊手術などを行うことが認められ、1万6000人以上に手術が行われた(NHKローカルニュース)とされています。
その優生保護法下で手術された、宮城県に住む60代の遺伝性精神薄弱女性が提訴することを決めたとする件です。
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旧優生保護法下障害者不妊手術、家族ら実態調査求める
女性は、この手術が個人の尊厳や幸福追求の権利を保障する憲法に違反するとして、来月にも全国で初めて仙台地方裁判所に提訴する方針だそうです。
この報道について、ネットの反応は、「
当時合法だったとしても合意なしでやるのはやりすぎ」という意見がある一方で、「
障がい児を産むかもしれないことも、障害者が親になること自体も社会的リスクであり、そのリスクを避けることは正しい」という意見もあります。
その後者について、私の意見(異論反論)を述べます。
障がい児を「産まない」ことに何の意義がある?
まず、「障がい児を産むかもしれない」という点ですが、誰でも障がい児を生む可能性はあり、またその原因は特定できない、ということをこのブログで度々書いています。
そして、かりに出生前診断で障がい児ではない確率が高かったとしても、出産時の事故(これは意外に多い)、もしくはそれ以降の交通事故、海で溺水、高熱の病気、大腸がんによるストーマ、脳卒中による四肢麻痺など、中途障害者のリスクなど人生の道順にはゴロゴロ転がっています。
つまり、障がい児を「産まない」ことが、障がい者が「存在しない」ことにはしょせんつながらないのです。
そこで「障がい者が、より少ない」状態にするために強制中絶を行うか、障がいがあってもどんとこいという力強い社会にするか。
私は後者を考えますが、そう前向きに考えることはできませんか?
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我が国の子育て支援そのものが不足しているのに
「障害者が親になること」を、社会のコスト的なリスクがあるという意見も賛成できません。
本来、親に障がいがあろうがなかろうが、子育ては親だけではなく社会に支えられて成立するものです。
健常なら社会の世話にはなっていないと考えるなら、とんだ思い上がりか勉強不足です。
しかし、現状では、保育園の待機児童など、
障がいのある親の能力以前に、我が国の子育て支援そのものが不足しています。
不足しているなら、不足しないようにするという前向きな考えはできないのでしょうか。
さすれば、障害のある親こそは、むしろ社会を発展させていくための象徴であり突破口であると私は考えます。
私がいつも強調しているのは、障害者の親にしろ誰にしろ、
社会的弱者は文字通り社会の弱いところを教えてくれる存在なのです。
政治が国民に冷たくなると、一部国民は弱者に八つ当たりを始めます。
しかし、それは自らの首を締める愚かな行為であると思います。
障がい者を排除するのではなく、共通の課題に対する共同の取り組みを行う姿勢へ発想を転換しませんか。
精神障がいのある親に育てられた子どもの語り――困難の理解とリカバリーへの支援 -
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