長嶋茂雄が、現役として最後の公式戦を迎えたのは、1974年10月14日の後楽園球場。対中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーだった。不世出のスター選手の引退試合を見ようと、ウイークデーの消化試合デーゲームにも関わらず、球場にはたくさんのファンがつめかけた。
1974年10月12日、中日が2試合を残し優勝決定。
巨人はその日、神宮球場でのヤクルト戦の後、「川上監督勇退、長嶋現役引退」の記者会見を行った。
翌日、後楽園での中日ダブルヘッダーが最終戦となり、長嶋の引退試合となるはずだったが、雨で14日に延期となった。
1974年10月14日、長嶋茂雄選手はプロ野球の最後の試合を行い、現役を引退した。
当時の長嶋選手は41歳で、プロ野球界において最も偉大な選手の一人として認められていた。
引退試合は、読売ジャイアンツと中日ドラゴンズの試合(ダブルヘッダー)で、後楽園球場で行われた。
14日、第1試合の開始は正午。中日は名古屋で優勝パレードを行い、主力選手は不在だった。
第1試合は、通算444号のホームランを打った。
試合が終わると、ダイヤモンドを一周した。
当初は、警備の問題から「自重してほしい」と言われていた。
しすし、長嶋は、「(予定されていた)セレモニーでは外野に近づくことができない。俺はファンにあいさつしたいんです」と聞かなかった。
第2試合は、8回裏に打順が回ったが、併殺打に終わり得点することはできなかった。
引退試合後、長嶋選手は試合前に観客に向けて感謝のメッセージを伝え、試合後には選手時代のユニフォームを脱ぎ捨てて球場を去る姿が印象的だた。
長嶋選手は引退後、ジャイアンツの監督や、日本野球機構のコミッショナーを務めるなど、野球界で重要な役割を果たした。
長嶋茂雄選手は、通算3,017本の安打と868本の本塁打を記録し、9回の首位打者、2回の本塁打王に輝くなど、数々の栄誉に輝いている。
彼の引退試合は、プロ野球界にとっても、日本のスポーツ史においても、重要な出来事の一つとされている。
といったことを踏まえた上で、以下をお読みいただきたい。
ダブルヘッダー
戦後史、というと一般に政治的出来事が中心だが、もし球界の出来事を含めるなら、10月14日は大きな出来事があった。
1974年10月14日、長嶋茂雄がその日の試合を最後に現役を引退した。
その日は、公式戦最終戦のダブルヘッダー。首位・中日と2位・巨人の戦いだった。
が、シーズンはその前々日、中日が巨人のV10を阻む優勝を決めてしまったため、消化試合になってしまった。
当初の予定では13日に開催されるはずだったが、「巨人ファンの涙雨」といわれた豪雨で14日に順延された。
月曜日の消化試合だったが、長嶋茂雄の現役最後の試合を見ようと、後楽園球場は満員になった。
この年は雨天中止が多く過密日程がつつき、またペナントレースは最後まで優勝争いを繰り広げたため、中日は主力選手を休ませ、この遠征には、若い大島康徳以外は2軍選手を連れてきた。
一方の巨人は、川上哲治監督も勇退を発表しており、第1試合がそのシーズンのベストメンバー、第2試合がV9メンバーをスタメンに立てた。
試合の方は、第1試合は最多勝がかかっていた堀内恒夫がノックアウトされながらも巨人が猛打で圧勝。
第2試合は長嶋茂雄が4番に回り、こちらもワンサイドで巨人が勝った。
シーズン終了後、長嶋茂雄は監督に就任。V9メンバーのうち、コーチ兼任だった森昌彦は引退して退団、黒江透修も引退してコーチ補佐に就任した。
その後
1980年、読売ジャイアンツの監督であった長嶋茂雄氏が解任された事件は、プロ野球史上最も有名な監督解任事件の1つとして知られている。
この事件は、長嶋氏が監督就任後6年間にわたり、チームをリーグ優勝2回2導いた実績があったにもかかわらず、シーズン限りのという形で発生した。
解任の背景には、当時の球団社長と、球団オーナーの間で、チーム経営方針や人事に対する意見の対立があったことが大きな要因とされている。
この解任は、野球ファンやマスコミから強い反発を受け、野球界に大きな衝撃を与えました。解任後、長嶋氏はプロ野球界から距離を置くようになったが、後にテレビ解説者やコミッショナーなど、野球界に復帰しました。
なお、この解任事件は、長嶋氏が率いた読売ジャイアンツの黄金期の終焉を意味する出来事としても、野球史に残る重要な事件となっている。
野球は人生そのものだ
- 作者: 長嶋 茂雄
- 出版社/メーカー: 日本経済新聞出版社
- 発売日: 2009/11/11
- メディア: 単行本
2011-10-14 02:45
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