SSブログ

神戸芸能社は芸能界と暴力団の関係を語るキーワード [芸能]

神戸芸能社をご存知だろうか。芸能界と暴力団の関係についての記事が、島田紳助の件以来増えている。たとえば、「NEWSポストセブン」では、「美空ひばりや鶴田浩二ら かつて山口組の庇護下にあったAdd Star」というタイトルで、溝口敦氏が芸能界と暴力団の関係について歴史をひも解いている。田岡一雄・山口組三代目組長と美空ひばりといえば、神戸芸能社という名前がすぐに浮かぶ。

山口組は、博徒だけではなく生業を持てというのが大きな方針にあった。山口組のもっとも有名な「生業」は、芸能部、やがて企業舎弟となった神戸芸能社だ。

神戸芸能社は、美空ひばりや田端義夫、高田浩吉、里見浩太朗、 山城新伍、橋幸夫、三波春夫、北条喜久子らの興行権を持っていた。

「興行は山口組経営の大事な柱だった。田岡は1951年、大阪・難波スタジアムでひばりの野外ショー「歌のホームラン」を自主興行したころからひばりを影響下に収めたし、当時の人気俳優、鶴田浩二にも1953年、触手を伸ばした」と溝口敦氏は説明する。

スポンサードリンク↓

しかし、鶴田浩二のマネージャーは、山口組のプロモートを断り、それでいながら後日、菓子折りと5万円を持参して公演を行うと挨拶に来た。

しかし、田岡一雄組長は、従来のヤクザのようにカスリを取るのではなく、興行そのものがやりたかった。
しかも、5万円を包んできたことに、コバカにされたようでたいそう腹を立てた。

溝口敦氏はこう説明する。

「正月、鶴田浩二は大阪・千日前、大阪劇場での「百万ドルショー」に出演し、夜は定宿である天王寺区の備前屋で休んだ。田岡の命を受けた若い衆、山本健一(後に山口組若頭、初代山健組組長)ら4人は宿に上がり込み、鶴田の頭をウィスキー瓶とレンガで殴りつけ、鶴田が気を失うと、表に待たせた黒塗り乗用車で走り去った。鶴田は救急車で近くの病院に運び込まれ、頭と手に11針縫うケガを負ったが、俳優の命である顔は何も傷つけられていなかった。」

鶴田浩二に恋心が芽生え、田岡一雄組長を育ての親のように慕っていた美空ひばりの心中は複雑だった。

その後、田岡一雄組長と鶴田浩二は和解した。さらに、美空ひばりは浅草国際劇場で同い年の19歳の女性から塩酸を浴びせられ、ひばりの母と個人事務所の新芸プロの幹部との関係が悪化したりしたみことから、田岡一雄組長と美空ひばりの関係はさらに深まった。

その看板タレントである美空ひばりと田岡一雄組長の出会いがこの本に書かれている。
美空ひばりと田岡一雄 焦土のめぐりあい編 『美空ひばりと田岡一雄 焦土のめぐりあい編』 西木正明、田丸ようすけ 竹書房 戦後の歌謡界を代表する国民的歌手・美空ひばり。彼女を大歌手に育てたのは勿論ファンであったが、しかし、そればかりではなかった。彼女が昇った大スターへの階段には影のように寄り添う山口組三代目・田岡一雄の姿があったのだ……。 詳細はここをクリック>>

昭和40年代になると、社会も高度経済成長時代に入り、もはや戦後ではなくなると、警察は暴力団追放を言い出し、彼らから生業を切り離して資金源を断った。

神戸芸能社も例外ではなかった。美空ひばりと神戸芸能社の運命はこの書に詳しい。

美空ひばりと田岡一雄 首領とお嬢編 『美空ひばりと田岡一雄 首領とお嬢編』 西木正明、田丸ようすけ 竹書房 実の親子より固く結ばれた絆。それが美空ひばりと山口組三代目田岡一雄の関係だった。しかし世間はそんなニ人をスキャンダラスな目でしか見ようとしない。戦後の歌謡界と任侠の世界が生んだヒロインとヒーローに訪れる苛酷な運命。完結編―!! 詳細はここをクリック>>
nice!(21)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:芸能

nice! 21

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

Copyright © 戦後史の激動 All Rights Reserved.
当サイトのテキスト・画像等すべての転載転用、商用販売を固く禁じます