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日本社会党委員長公選

日本社会党委員長公選 1981,12,20

日本社会党では前回から委員長公選制をとっていた。前回は立候補者がなく飛鳥田一雄の信任投票となったが、今回は下平正一副委員長や武藤山治政審会長ら3名が立候補し、事実上初めての公選になった。これは、前年の「社公合意」を巡る党内のヘゲモニー争いという争点にほかならなかった。

「日本社会党が自由民主党の一党支配を打破するには、公明党と手を結ぶ以外にないというのが当時の大勢。中執でも決定しているし、私も積極的に推進しました。ところが飛鳥田さんは、ボクには『しっかりやってくれ』と言っておきながら、よそでは『全野党』と叫ぶ。これじゃあ『突撃しろ』と言われて前に出たところを、後ろから鉄砲で撃たれるようなもんだと憤慨しました」(武藤山治)

「第一、ボク自身、公明党っての信用していないからね。その時々に都合のいいこと言うでしょう。こっちについたり自民についたり。まあ野党第二党という事実は認めるけど、あてにならない党という感じ」(飛鳥田一雄)

結果は68.5%の得票率を得た飛鳥田一雄が再選された。

「社公合意」に慎重な態度を取っているとされた飛鳥田一雄の当選が、党の方針に影響を与えるとの見方もあったが、その後、飛鳥田氏自身が「飛鳥田ドクトリン」なる「道」の見直しを提案し、結局その行き着く先は、綱領的文書の「道」を歴史的文書として棚上げし、それにかわる「社公合意」用の綱領的文書の作成にとりかかっていくことになった。しかし、当時の飛鳥田氏はそれを不本意としていたようである。

「飛鳥田ドクトリンは、『道』見直しに方向付けをしようと思って作ったんだ。ところが、出来上がった『構想』なんかには必ずしも生かされていない。ソ連型社会主義を克服するってことに異存はないよ。それに『参加』を進めることや、国民に開かれた党にしようってボクの考え方も継承はされている。だけどね、権力をいったいどの階級が握っているかっていう根本的なことがあいまいになってると思うんだ。(中略)要するに、理論センター全体が思ってたより右寄りになっちゃったんだ」(飛鳥田一雄)

飛鳥田の意図や自覚や言い訳はどうあれ、「右寄り」は党のオフィシャルな否定できない方向であり、それが後の「新宣言」といわれるものにつながる。(この項のコメントはいずれも『飛鳥田一雄回想録』朝日新聞社 87年より)
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センニン

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by センニン (2010-11-23 08:42) 

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