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「社公合意」成立

自由民主党の低落傾向の中で、野党の連合政権構想が政局の大きなカギを握ると言われ始めた。

そんな中で、前年12月の公明党と民社党の政権構想の合意(いわゆる「公民合意」)に続くものとして、日本社会党(以下社会党)と公明党との間に「社公合意」が成立したと発表された。

この合意は、

1 今までの革新三目標のご破算
2 自由民主党とも連合する可能性をもつ
3 日本共産党(以下共産党)は連合政権構想の対象にしない
4 従って従来掲げてきた全野党共闘路線も取りやめ
5 安保条約の解消は、時期がくるまでおあずけ、

など従来日本社会党が革新政党として掲げ続けてきた重要政策を転換したものだった。

これは日本共産党からの批判だけでなく、日本社会党内にも混乱を持ち込んだ。

何より2が盛り込まれたのは、時折矛盾や動揺を見せながらも、「反自民」の最大議会勢力としての立場にもとるものであり、それを支持してきた有権者を裏切るものだった。

この合意の背景には

1 日本社会党の反共主義が、6全協以後、70年代の日本共産党躍進に対するジェラシーとして再び頭をもたげた
2 日本共産党の躍進と自党の長期低落という現状に、公明党の選挙協力のエサ
3 江田三郎的改良主義

などがあると言われた。

いずれにしても、「公民合意」に加えてこの「社公合意」が成立したことで、日本共産党以外の主要野党は日本共産党を排除しながら、一方で自由民主党との大連合も視野に入れた政権狙いを公然と表明したことになる。

日本社会党は「社公合意」について、「安保賛成とは言っていない」「日本共産党とは地方選挙や大衆運動では共闘する」などの弁明をしたが、当時のマスコミは「ルビコン川をわたった社会党」という表現まで使って、その路線転換が歴然としていることを指摘した。

現実に、社共の地方共闘はその数年後にほぼ消滅し、一方では「オール与党」首長が続々誕生した。

さらに、共産党をのぞく野党はすべて、国政で自由民主党やその分派との連立政権を実現した。

日本社会党が「賛成とは言っていない」と強弁していた安保・自衛隊問題は、村山富市首相の所信表明演説の際に、党内手続きをせずに決着が付けられた。

重要なことは、「社公合意」自体は自然消滅したものの、この「非共産連立構想」は当時だけのものではなく現在なお生き続けているということである。つまり、当時の2党間の約束というだけでなく、戦後史上、議会政治に大きな影響を与える「合意」だったのである。

現在でこそ「野党共闘」は行われているが、それ以後の野党間の政権構想はといえば、相変わらず共産党は蚊帳の外になった。

また、地方自治体での首長選は「共産党と新社会党の共闘」はみられるものの、「共産党と社民党の共闘」は沖縄以外はむずかしい。

これは、共産党排除の「合意」が「公明党のせい」ばかりではなく、実は同党にとって必然的でかつ不可逆的な帰結であることを意味してはいないだろうか。

共産党に批判的なホームページや、同党を離党した者の中には、共産党がイニシアチブをとって、社民党や新社会党と、自民、新自由主義に対抗する「革新」の第三極を求める意見もあるようだ。

一見もっともらしいが、現実にはもはや違う方向を歩む社民に対する譲歩なしにはあり得ないことである。

憲法(第9条)が政治的争点になりうる現在、その方向性は積極性のある提案ではあるが、単純にスローガンとして掲げるには課題も山積している。

かつての総評事務局長だった岩井章は全労協立ち上げの際、全労連に対して「同じバスには乗らなくても同じ方向を走ればいい」と言った。

そのデンにならえば、どういう方向を走るのか、走りつつあるのか、走る必要があるのかなどをきちんと確認する必要があるだろう。

話は戻って、社公民路線は政治だけではなかった。これによって労働戦線も再編が始まり、これまた「共産党系をのぞく」全民労協の誕生、そして「連合」の誕生にあたっては総評や同盟も名目上解散。ナショナルセンターとして一本化された組織は、ひとまず「社民の和解」を達成した。

政界の「社民の和解」は、現在は民主党という形で結実したが、同党もいろいろ複雑に政党であり、政権を取っている現在でこそひとつだが、ひとたび「政局」となれば、どうなるかわからない。
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